雛人形の種類 〜江戸期に現れた雛人形の系譜

雛人形を飾るひな祭りの始まりは3月の上巳の日に「ひとがた」に穢れを移し、身代わりの「かたしろ」として流した古来の行事と、平安の昔からの女の子の「ひいな遊び」が時代の流れの中で混ざり合って生まれた、紙ひいな、立雛の形にあります。立雛の作りがやがて上等になり、流さずに室内に飾るようになるとより安定のよい座り雛が生まれてきます。戦乱の世がおさまり徳川約270年の泰平の時代には、一般の人々の生活も落ち着き、文化も生活の中で大きな役割をもつ様になり、力を持った町人文化の中で次第に雛あそびも女の節句としてのひな祭りの行事に発展しました。

立ち雛 たちびな
紙雛、神雛とも呼ばれ紙で作ったものです。古く平安時代のひいな遊びとお祓いの「かたしろ」が、時代の流れの中で結びついて出来た雛人形の原流の一つとされています。時代が下がると紙雛の形のまま頭に髪をつけ、布地の衣装をつけたものも出てきます。

寛永雛 かんえいびな
寛永(1624〜1643)という時代の名前を持っていますが、初期の座り雛の様式の名前です。初期特有の小型の雛人形で、男雛は頭と冠が共作り、頭は面長で髪を植え付けないで黒く塗ってあります。男雛にだけ手が付属するのも特徴です。女雛は小袖に袴の略装とし膝の部分に綿を入れて安定をよくしています。

元禄雛 げんろくびな
古式享保雛とも呼ばれるもので享保雛に移行する前駆的な雛で、寛永雛に似て小型で、男雛の冠が頭と共作り、顔の表情も墨入れです。衣装は寛永雛より大きく派手な装いになってきます。

享保雛 きょうほうびな
江戸中期、享保頃に流行した雛で寛永雛、元禄雛が発展し、高級化されたもので比較的大型の雛が多く、高さ45cm程度から大きなものは60cm以上のものもあります。面長な顔で装束は金襴や錦を用い、男雛は両袖を張り太刀を差し、笏を持った姿。女雛は五衣唐衣装(いつつぎぬからぎぬも=十二単<じゅうにひとえ>)で、袴には綿を入れて丸く膨らませ、檜扇を持っています。

寛永雛、元禄雛、享保雛等の名前は、 明治以降に様式の名前を分類したもので、必ずしもその時代に作られたものではありません。

有職雛 ゆうそくびな
宝暦〜明和(1751〜72)頃に、公家の装束を正しく考証して衣紋道の司家、高倉家、山科家の認定のもとに作られた雛です。公服の束帯、平服の直衣(のうし)、直衣を簡略化した小直衣、外出時の狩衣(かりぎぬ)など、公家の姿を忠実に復元しています。

次郎左衛門雛 じろうざえもんびな
京都の人形師、雛屋岡田次郎左衛門が創始した雛で、最初は上流階級相手のものでしたが、宝暦11年(1761)江戸に進出して日本橋室町で売り出されてから普及し、従来の享保雛に変わって江戸の人気を独占。以降寛政頃まで江戸で広く親しまれました。面長の享保雛に比べて顔が丸く、引目鉤鼻の典雅な気品に満ちています。

芥子雛 けしびな
江戸中期以降に流行した3寸以下のごく小さな雛。度重なる奢侈倹約令により大型の雛人形作りは制約を受けたため小さな雛人形や雛道具が生まれました。芥子粒のように小さい雛ということです。

古今雛 こきんびな
京雛の次郎左衛門雛と相前後して現れた雛。明和(1764〜72)の頃、江戸上野池之端の人形問屋が日本橋十軒店の人形師、原舟月に作らせたのが始まりです。江戸では次郎左衛門雛に替わり流行した江戸後期を代表する雛です。面長な顔で、雛の両目に玻璃玉(ガラス)や水晶をはめ込んだものもあり、衣装には金糸、色糸で縫紋を加工、袖に紅綸子(りんず)を用いたり、写実的で色彩豊かに仕上げてあります。

こういった雛人形は都市を中心に発展し、都市を離れた地方にも北前船などによって運ばれました。一方その地方でも今日、郷土人形と言う名で呼ばれている土や張子などの郷土色豊かな人形が作られて一般に流布するとともに、街道筋や寺社の門前町などで土産品として売られていました。これらは一般に安価なものですが、各地それぞれに題材が豊かで、味わい深い表情を持ち、今日でも高く評価されています。


こちらに記載の内容は、雛人形を所蔵し出品寄託しているグループ“新潟ハイカラ文庫”のホームページより引用しています。